赤れんがまつり・検事総長と語ろう会②
【日本発の裁判員制度】
ところで、裁判員制度というのは、これは一体何だろうかということであります。実は最初に申しましたけれども、日本は長い間、権力者と統治される者との間に、一定の信頼関係があったものですから、我々の気持ちの中には「そういうのはお上がやってくれっていうんだよね、俺たちの話じゃないよ」っていうのがあるわけ。ですから、裁判員制度と聞いた時に、「そういう七面倒臭いことは、裁判官がやりゃあいいじゃないか」というふうに、みんな思うわけですよね。それも一つの考え方でありまして、実は私たちのDNAの中に、非常に深く根差している部分なんですね。
で、それがなぜ今、裁判員制度なのかというのが、一大テーマなのであります。大きく申しますと、自己責任の時代というのが、間もなくやってきます。これは預金限度額の関係ではもう始まっていますけれども、これからは行政がみなさんを守っていたという時代が終わりを告げて、みんな自律的に自分の責任でものを考えなきゃいけない時代に入ってくると言われているんですね。そうすると、自分が責任だけ取らされて、自分がその権力の行使にはまったく参加しないとなると、負担だけになってしまいます。やっぱり、次の時代は自分にその責任を問うてくる時代であるならば、自分がその責任を問う権力の行使に参加するということを考えないと、バランスが取れない時代に、もう来始めているんですね。
これは社会的な問題ですけれども、もう一つはこういう問題があります。司法という世界は、特にお上の中のお上なんです。つまり、どうしてお上の中のお上なのかというと、これは世界に誇れることですけれど、日本の裁判官とか検事は、お金に買われて結論を曲げるということは、日本の国民は考えないんですよね。そんなのことはあるはずがないと思っている。ところが、世界的にいうとそんなことはないんです。いくらでもあります。アジアの立派な発展をしている途上国にあっても、裁判官にお金を払って結論を歪めてしまうということが、その国の発展においても非常に大きな桎梏になっているんですね。やっぱり誰かがどこかで、正義っていうものをきちっと守ってないと、最後の自分たちの足場がなくなってしまう。そういう意味で日本の裁判っていうのは、世界に冠たる裁判・司法なんであります。その意味で、「だから言ったじゃないか、それでいいじゃないか」と言われればそれまでなんですね。
ところが、国民の感情自体が変わってきているんですね。一番、変わったのは地下鉄サリン事件だと思うんです。地下鉄サリン事件が起きて、遺族の方々がテレビに出て、発言されるようになった。それ以後、ずっと被害者の人が、メディアを通じてどんどん主張を強くしてきたんですね。ここで意外だったのが、これまで「お上に任せていれば安心だ」というふうに、私たちも思っていたんです。ところが、遺族の人たち被害者の人たちが口を開いたところ、そうじゃない。「自分たちの意見が裁判の中に反映されてない。もっと自分たちの意見を裁判に反映させれべきだ」っていうことを、堂々と言われたんですね。これでショックを受けたのは、裁判官とか検事とか弁護士。つまりプロとしてやってきた法曹三者の人たちも、腰が抜けるほどのショックを受けた。で、一般の国民の人たちもショックを受けました。何かというと、「おや」っと、「自分たちは信頼し切っていたが、その国民の感情と裁判というのは、そんなにもかけ離れているのか」というを、みなさんが心配し始めたんですね。
この裁判員制度というのは、やっぱりみなさんがこの刑事裁判が国民から離れないようにするために、自ら参加しようというシステムなんですね。で、少なくとも裁判官とか憲治は今までは、自分たちがこの社会で、この人を制裁すべきかどうか、どのくらいの制裁をすべきか、これは検事と裁判官だけできちっと決められると思っていたんですね。でも、それは思い上がりではないか。やっぱり、裁判にしても、国民主権である以上は、国民から離れてあってはいけない。「国民の目、国民の気持ち」、そういうものをきちっと根底で汲み上げて裁判は行われなければならない。それを保障するシステムは何かないか。その保障するシステムこそが、この裁判員裁判なんであります。
裁判員裁判が行われることによって、否応なく、裁判官は国民のみなさんの気持ち、判断、そういうものがどこにあるのかを考えなければならない。共同作業しなければなりません。また、検事もまたそうであります。つまり、国民の目にさらされた時に、自分たちの捜査が正しいものとして、認められるかどうか。そして、自分たちの意見が国民のみなさんに受け入れられるかどうか、そういう国民の目というのを意識して捜査が行われ、裁判における検事の活動が行われる。それがやっぱり、国民主権における裁判のあるべき姿ではないか。
実は、日本の裁判員制度というのは、世界にまったくない制度であります。この日本という国は、昔から外圧が来ないと自分を変えないという特質を持っています。これは司馬遼太郎の受け売りでありますが、645年に大化の改新というのが起きたんですけれども、これもそれまで全国ばらばらで、古墳時代の族長たちがそれぞれの領民と土地を持っていたわけですが、中国に隋という巨大な統一国家ができまして、ここの煬帝とういう人がえらい侵略が好きな人でありましてね。この人は高句麗まで攻め入っているんですが、どうも日本に来るんではないかというふうに、日本の族長たちが思ったらしいんですね。それで急に自分の領民と領土を全部、大和朝廷に差し出してしまった。ですから、その時代は、すべては大和朝廷の土地になった。統一国家というのをつくったんですね。その証が、大宝律令になるわけです。
で、二度目は有名な明治維新ですが、これはまた英国主義列強が日本に攻め込むというふうに思ったものですから、各藩はそれぞれ自分の藩の土地と領民を全部、捧げたんです。それで殿様はどうなったかっていうと、ベンレイ?という名前の役人になったちうわけです。
こういうふうに、日本は大きな曲がり角の時は、たいがい外国が関与しています。で、我々は外国が攻めてくるということを前提にして、自分たちで自分たちの文化で、吸収と自分たちの文化をこね合わせて、何か新しいものをつくってきたわけです。
で、裁判員の制度がほかの国の制度と違うというのは、たとえばアメリカとかイギリスにある陪審員は、最後は裁判官が部屋から出ていってしまって、国民だけが論議して結論を出すということになっています。
参審員制度というのは、裁判官より少なめの人が、事件ごとではなくて、半年ぐらいの期間、裁判員を務めるというような制度であります。で、この裁判員制度のほうが一見、弱そうだなという気もするんですが、参審員制度は特定の人が選ばれるんですね。国によっては、政党が推薦する者の中から選ぶとか、いろんな形があるんですけれども、一定程度選ばれた人がやる。その人が長期間にわたっていろんな事件を裁判官と一緒にやる。で、これになりますと、やや裁判官そのものに近くなります。
陪審員制度の欠陥は何かというと、本当に素人だけでやれるかということですね。これはなかなか難しいことなんです。この後、模擬裁判が行われて、証人が何人か出てきます。5人くらいの証人が出てきていろんなことを言いますと、あの証人が何を言ったかというのを覚えているのもなかなか大変です。裁判官というのは、そういうのはしょっちゅう訓練を受けていますから、この事件はここが問題だから、この証人はああ言ったこう言ったということを覚えているんですね。だから、裁判員の人は、陪審員制みたいに自分が全部の責任をかぶって、全部理解して何か評議しなければならないという必要はないんです。評議の時に「あの証人はどう言いましたかね」と言ったら、裁判官が「あの証人はこういうふうに言いました」と、ちゃんとやる。ですから、言ってみれば、裁判員の人は判断をする。そういう役割を担うんですね。そういう意味で、日本の裁判員制度というのは、言ってみれば、裁判官という一つのお上と国民の中から無差別中立に選ばれた人たちとの間の共同作業なんですね。そういう共同作業によって新しいシステムを生み出してやっていこうというのが、裁判員の裁判なんです。
いろんなところに特徴がありまして、たとえば裁判員6人が「セーフ」と言ったとします。ところが、裁判官が3人ともこれは「死刑ではない」と言ったとします。どうなるかというと、実は死刑にはならないんですね。どちらの陣営も必ず入った評決でなければ、重いほうにはできないという仕組みになっているんです。そういう意味で、裁判員裁判というのは、世界の中で非常にユニークなシステムとしてつくられています。しかし、我々の持っているDNAからいうと、相当違うところがある。ですから、この制度が本当に日本の中で定着していくのは、おそらく10年かかるかもしれない。しかし、考えてみれば、我々が終戦を迎えた時は、「一億玉砕」と言っていたんですね。で、翌日から「民主主義だ」という話になったんです。多分、あの終戦前夜で、世界の中で民主主義が一番ふさわしくないのは、日本の国民の心情であったと思うんです。しかし、日本の国民は、それも何年も何年もして、自分たちのものにしてきたわけです。この裁判員制度にみなさんが反発があるのは当たり前ですが、自分たちがこの制度によって、お互いに社会をつくっていこう。これからはみなさんが自分の責任を問われるなら、自分も参画していこうというふうに、マインドを変えていくことが必要なんじゃないかなぁと思います。
「日本人に合わない」といいますが、私は世界で一番合うと思います。それは、なぜなのか。たとえば、アメリカのみなさんご存知の、シンプソン事件とか、マイケルジャクソン事件とか、たくさんありますね。やはりアメリカみたいに民族の対立が厳しいところは、その人種の違いによって裁判が歪められてしまうことがたくさんあるんです。我々はそういう差別感というのは、ほとんどありません。それから、もう一つは真面目ですから、そういうことによって、裁判を左右するようなことは、日本人はしないだろうなと思います。それから、日本人は優しいですから、被害者に対しても、遺族に対しても、同時に被告人に対しても、非常に優しい心情を持っています。そういう優しさこそが、苦渋であり迷いであるんだけれども、一番、妥当な裁判ができる国民じゃないかな、というふうに思っております。
そろそろ時間が参りましたので、「おあとがよろしいようで」ということで、一応、終わりたいと思います。
③へ続く>
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/159920/15535646
この記事へのトラックバック一覧です: 赤れんがまつり・検事総長と語ろう会②:


コメント